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北海道を代表する旧道廃道の宝庫としてもうすっかりおなじみ国道229号。今までも積丹半島を中心にいくつかの廃道を紹介してきましたが、誕生以来次から次へと改良が重ねられている国道229号はまだまだ沢山の旧道廃道を抱えています。今回紹介するのは、そんな国道229号の数ある旧道廃道の中でもイチオシの物件です。

今回レポートする旧道があるのは道南のせたな町です。せたな町は2005年に瀬棚町・北檜山町・大成町が合併して生まれた町で、旧道はその最北部の、もともと瀬棚町だった瀬棚区の、さらに北端部近くに位置しています。
現在、せたな町北端の虻羅(あぶら)〜島歌間を隔てる海岸は延長1,065mの虻羅トンネルが軽々と抜けています。1973年に開通した虻羅トンネルは国道229号に星の数ほどあるトンネルの一つという以上の個性はなく、ただ漫然と走っているだけならばカケラも印象に残らないでしょう。

しかし、ちょっと海の方へと目をやれば…


遠くから見るだけで背筋も凍る
断崖絶壁!
そして…その下部を伝っている…
旧道!
藪に埋もれているとはいえしっかり確認できる旧道!
極めつけに三つの
覆道!
強烈な
インパクト!

この光景には旧道廃道に興味を持つ人はもちろん、道路に特に興味が無い人でも目を奪われてしまうかもしれません。北海道の中で最も印象に残る廃道の一つだと思います。

地質的に脆いのでしょう、地形図にクズレと表記されているこの断崖群は"虻羅の崩れ"と呼ばれており、海岸には崖から転げ落ちたであろう巨大な岩がゴロゴロと転がっています。この崩れやすい断崖絶壁は、距離にすれば僅かに1.2km程度にすぎませんが交通にとっては大きな難所であり、人々はいつしかこの道を新潟県の著名な天嶮になぞらえるようになりました。
すなわち"蝦夷親不知(えぞおやしらず)"と。

明確な記録は見つかりませんでしたが、この道は少なくとも昭和2年(1927年)には建設されており、当初は準地方費道18号 江差岩内線として、1953年からは国道229号として活躍していました。しかし長らく未開通で幻の国道と呼ばれていた茂津多岬区間(瀬棚町-島牧村間)の国道229号全通にあわせるように昭和48年(1973年)、現・虻羅トンネルが開通。蝦夷親不知は現役を退き、その後今日に至るまで通行人を驚かすという余生を送っています。
現道である虻羅トンネルの開通は1973年ですから、探索した2008年の時点で放棄後35年の歳月がたっていることになります。"崩れ"に晒されている旧道は果たしてどの程度原型を残しているのでしょうか?見たところ藪に覆われてはいるものの覆道はしっかりとしてそうですが、非常に気になります。


実は私と天空開発にとって、蝦夷親不知は北海道の旧道廃道の中でももっとも早くから目をつけていた物件でした。それがなぜ今まで探索していなかったのか、まずはそこからお話しなくてはなりません。 
時はさかのぼり、約3年と半年前の2005年3月31日午前10時頃。私と天空開発は、平成の大合併によりその日限りで無くなってしまう道南の砂原町を訪れてカントリーサインを撮影後、雲石峠を越えて日本海沿岸を北上していました。その時に上の写真の光景を目撃し、大興奮!これは是非歩いてみたいということで、トンネルを抜けたところにある駐車スペースに車を停めて、島牧側(北側)からの進入を試みたのです。

島牧側からだと素堀の隧道が姿を見せており、私たちは興奮しながら枯れた藪に覆われる旧道敷を歩いていきました。

しかし隧道を目の前にして…
潰れた覆道が路面を覆い隠していました。見るからにもろそうな上に雪で滑りやすそう(しかもいい具合に海側へ傾斜がついてるし!)な屋根の上を乗り越えていくのはあまりに危険、かといって下をくぐり抜けるほどの隙間も残されておらず、脇を抜けようにも崖側との隙間は木の枝やさび付いた金網が埋めてしまっていて難しく…

私たちは諦めざるをえませんでした。

写真では見えていませんがこの隧道の奥にも潰れた覆道があり、どうやら覆道-隧道-覆道と一続きになっていたようです。

その後も数年の間にわたって、私と天空開発はドライブでこの付近を訪れた時に進入を試みたもののいずれも失敗してきました。しかし初遭遇から3年半の月日を経た2008年9月、今度はドライブのついでではなく、蝦夷親不知突破を目標として絞り込んだ上で反対の瀬棚側(南側)から挑戦することにしたのです。
 

レポート本編に入る前に、周辺の地形とこの道が持つ謎について説明します。
地形図の中での配置が下辺ぎりぎりだったので下に寸詰まりになってしまっていますが、左側は昭和42年(1967年)測量の地形図、右側は昭和52年(1977年)修正測量の地形図です。
昭和42年の地形図に茶色で示した約1.2km区間が蝦夷親不知です。

昭和48年(1973年)に延長1,065mの虻羅トンネルが開通したのを受け、昭和52年地形図には新たに虻羅トンネルが描かれて蝦夷親不知が旧道落ちしているのを見て取ることができます。

しかしよく見ると変化はそれだけではありません。昭和42年のものでは蝦夷親不知の区間においてトンネル記号は123の三つなのに、昭和52年のものではそれが12345の5つに増えているではありませんか。
よく見ると、昭和42年の1が昭和52年には12に分裂、同じく345に分裂しているようにも見えます。これはどういうことでしょう?トンネルが分割されたのでしょうか。

※出典
右=1:25,000 美谷 昭和54年9月30日発行
左=1:25,000 美谷 昭和44年1月30日発行
そもそも、地形図のトンネル記号がトンネルだけを示しているのか甚だ疑問です。先ほど掲載した蝦夷親不知の俯瞰写真に写っている三つの覆道は昭和52年地形図でいえば123のトンネル記号に対応する位置になります。それらの位置する岩壁には開削の跡も見あたらず、もともと隧道だったのを開削して覆道を設置したというわけでもないようです。また、虻羅トンネル開通後の地形図にもトンネル記号で記載されていることから考えても、地形図のトンネル記号は隧道だけではなく覆道も表していると見てまず間違いないようです。では一続きの長い覆道が末期には分裂させられたというのでしょうか?

謎は地形図だけにとどまりません。道路の公式データブックである現況調書によると、この区間には北から順に、島歌隧道虻羅第2号隧道虻羅第1号隧道白壁隧道の四つの隧道があったようです。

名称 延長 幅員 竣工
島歌隧道 7.0m 3.1m 1927年
虻羅第2号隧道 15.8m 3.1m 不明
虻羅第1号隧道 20.7m 3.1m 不明
白壁隧道 20.7m 3.1m 不明
※出典:『橋梁現況調書 附 トンネル現況調書 (昭和40年4月1日現在)』

1973年前後の各年度ごとの現況調書を調べてみると、これら四隧道は虻羅トンネル開通の年まで現況調書に記載され、虻羅トンネル開通と引き替えに記載が消え去っていますので、蝦夷親不知に存在していたものであると見て間違いないでしょう。
しかし四つという数が気に入りません。地形図では三つ→五つに分裂していた隧道・覆道ですが、現況調書では常に四つのままでした。しかも全てが隧道となっています。昭和52年地形図に掲載されている五つのトンネル記号のうち三つは覆道であるとわかっていますので、それら三覆道のうち少なくとも二つは現況調書の上でも隧道として扱われていた可能性があります。
また、先述したように島牧側には正真正銘の隧道が一つ確実に存在しています。その延長や、最北に位置するということから考えて島歌隧道がそれにあたるのだと思いますが、隧道を挟み込むように覆道が存在していたことを考えるとそうすんなりとは決定できないようにも思えます。地形図と同じように覆道も隧道として扱われていたと考えれば、島歌隧道に該当するのは隧道ではなく、その北隣の覆道となるかもしれませんし、覆道-隧道-覆道を一セットで考えていた可能性も考えられるでしょう。そもそも現況調書が覆道も隧道として記載していたのだとしても、地形図との不整合の問題は全く解決できません。


昭和42年地形図、昭和52年地形図、現況調書。全てが相反するデータを提示する謎多き廃道"蝦夷親不知"。実物を歩くことはそれらに解答を与えてくれるのか、はたまた謎は深まるだけなのか?

さあ、行ってみましょう!

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