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蝦夷親不知
第5部
 
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半ば諦めながらも、下回り上回りと突破可能なルートがないか探っていたところ、天空開発がうまい具合にルートを発見してくれました。崖の際にかろうじて残っている路盤を、茂っている藪を利用すればなんとか伝っていくことができそうなのです。

ここまで邪魔者だった藪に今度は体を預けながら慎重に崩落地点を乗り越えて行きます。
やっとの思いで見えていた覆道にたどり着きました。これも見事にぺしゃんこですので乗り越えて行きます。

海の向こうに浮かんでいる岩は亀岩といい、これは現道からも見ることが出来ます。冬にはトドが集うそうです。
屋根の上を少し行くと、覆道の向こうで道路が埋もれているのが見えてきました。結構大きな崖崩れによって路盤が数十メートルに渡って埋没してしまっているようで、斜面になっているのがわかります。
さて、地形図や『忘れられた道 北の旧道・廃道を歩く』(堀淳一著)に掲載されている写真を見ると、覆道はここから見える範囲いっぱいに続いているように見えます。ということは、あの斜面になってるあたりの部分で覆道は崖崩れによって埋没したかあるいは海へと押し流されてしまったかしたのだと思います。海岸に残骸が見あたらないところを見ると、おそらく前者ではないでしょうか。
 
比較のために『忘れられた道 北の旧道・廃道を歩く』(堀淳一著)50ページより1991年8月に撮影された写真を引用します。おおむね同じアングルと思われる構図ですが、左の1991年8月の写真内で青丸で囲んだオーバーハングしている岩肌が2008年9月には崩落して海岸に破片が積もり重なっているように見えます(2008年9月の写真の青丸内)。1991年8月の写真に写る、左へカーブしている覆道部分はその崩落の下敷きになっているように見えますが如何でしょうか。
また、同文献によれば1991年8月の時点でも先ほどの路盤崩壊はすでにあったようで、写真からも覆道直前の路盤がえぐれている様を確認できます。しかしその文章から判断すると2008年時点ほどひどくはないようで、1991年8月以降も崩壊が進んでいったのではないかと思います。
潰れた覆道の中を行く時は、ひしゃげ乱れた鉄棒が、鉄の藪のごとく行く手を阻みます。体をよじりながらなんとか通過し、崖崩れ区間へ。
先ほど見えていた、覆道ごと道路が埋没していると思われる崖崩れ区間に入ります。崩れた土砂でできた斜面の上部に藪の無い部分にあつらえたように道ができていました。ここを伝って先へと進みます。
その途中で振り返ると、今越えてきた覆道が見えます。そしておそらく今この足下に、覆道の一部が埋もれていると思われます。

写真だと白く飛んでしまっていますが、海の向こうには奥尻島が見えています。蝦夷親不知現役当時はさぞ景色の良い道だったのでしょうが、運転手は景色どころではなかったでしょう。バスに乗っていたとしてもヒヤヒヤし通しだったかもしれません。
崖崩れ区間を乗り越えると、おそらく今さっきの覆道と一続きであたろう覆道の出口側が倒れていました。
現在位置はここ。現道に合流するまではもうあと少しです。このまま無事に通り抜けられるでしょうか?

1:25,000 美谷 昭和54年9月30日発行
覆道などの構造物は、このように半端に残存しているとかえって通り抜けにくいです。しっかりと建っているか、いっそ完全に崩壊してしまってくれてる方が楽なんですけどね。
覆道を越えてから振り返ってみました。やはり覆道の中央部分は巨大な落石の下敷きになっているように見えます。すっごい大きな落石というか落岩がごろんごろんと!
途中が埋もれた覆道を越えてからススキの原を歩いて崖の張り出し部分を回り込んでいきます。さあ、この先に夢にまで見たあの隧道の裏側があるはず!

一足先に進んでいた天空開発が声を上げました。あったか!
ああ!夢にまで見た裏側!

現道側から表面しか見たことがなかったこの隧道、とうとう反対側をこの目で確認することが出来ました。

地球からは決して見えない月の裏側を初めて写真に納めたルナ3号もこんな気分だったのかなあなんて感動しつつ隧道へと歩いていきます。
隧道直前には覆道が崩れ落ちています。現役当時は覆道-隧道-覆道と隙間無く連なっていたのですが、すでに前後の覆道は失われ、隧道が残っているに過ぎません・

(『忘れられた道 北の旧道・廃道を歩く』には覆道-隧道-覆道の構造がまだしっかり残っている時代の写真が掲載されています。)
手前の覆道を乗り越え、隧道に到着!

隧道の延長は数メートル程度でしょうか。道路現況調書に記載されている延長7mの島歌隧道がこれにあたる可能性が高そうです。

隧道直後には、最後の構造物。我らの進入を阻んできた潰れた覆道が立ちはだかっています。これを越えられないとなったら、今やってきた藪の中を再び帰らねばならないのです…
とにかく、これで全ての構造物を確認することができました。約1.2kmの蝦夷親不知は、6の覆道、1の隧道、1の橋によって守られていたようです。

1:25,000 美谷 昭和54年9月30日発行
さて、最後の難関です。今まではこの潰れた覆道があったから進入できなかったのです。進入出来なかった以上、こちらから乗り越えて行くことも難しそうですが…

しかしここまでの経験で構造物の強度にある程度の信頼を持てたことにより、今までは考えに無かった突破方法で乗り越えることができました。
やったあ!通り抜けたあ!

悲願、達成!
しかしここから現道に戻るまでもまたすごい藪!しかし今まで幾度かここまで来た経験上、旧道敷には深い溝があって危ないことや、海岸に降りられることがわかっていましたのでここは海岸に降ります。
海岸には覆道の残骸らしく鉄板と、コンクリブロックの破片が散乱していました。石がゴロゴロしている海岸をしばらく歩き、階段から現道へと這い上がりました。

蝦夷親不知の現道である虻羅トンネルは昭和45年(1974年)に着工されました。これは国道229号の中でも長らく未開通で、幻の国道と称された茂津多岬を抜けんとする茂津多トンネルとほぼ同時期の着工になります。当時北海道最長だった茂津多トンネルが開通し、国道229号が全通となったのは昭和49年(1974年)の事でしたが、茂津多岬前後の区間においてもこの時期集中的に近代的なトンネルが建設されています。国道全通にあわせて道路状況の飛躍的改善を図ったもので、虻羅トンネルもその一つでした。ただ、虻羅トンネルは茂津多トンネル開通より一年早い昭和48年2月に竣工していますので、蝦夷親不知は国道229号全通より一足早く廃止となっていたと思われます。
やったぜ攻略!蝦夷親不知!

あー疲れたあ。服が汗と草汁まみれでくさいー。
さて最後に、二枚の地形図と現況調書の食い違いに関する私の強引なつじつまあわせをしてみましょう。



昭和42年の時点で現況調書には四本の隧道が記載されていました。

名称 延長 幅員 竣工
島歌隧道 7.0m 3.1m 1927年
虻羅第2号隧道 15.8m 3.1m 不明
虻羅第1号隧道 20.7m 3.1m 不明
白壁隧道 20.7m 3.1m 不明

昭和42年地形図を正しいとするならば、地形図上の1白壁隧道2虻羅第1隧道3虻羅第2隧道と島歌隧道となるでしょう。このうち実際に隧道であったのは島歌隧道のみで、ほか三本は覆道であったはずです。虻羅第2と島歌は隙間無く連続していたので地形図上では一つのトンネル記号にまとめられていたのでしょう。

そう考えると、昭和42年の時点において地形図の上に見かけ上三本のトンネル記号しかないことの説明がつきます(地図の上での延長が違う気がしますが、それは地図の精度がさほど高くなかったということで)。しかし現況調書に隧道として記載さている三覆道は老朽化が進んだのか災害かによって昭和42年以降に撤去され、現在残っている覆道が建てられたのでしょう。なので昭和52年の地形図は建て替え後の状況を正確に記載していますが、現況調書はそのまま変更されずに最後まで残ってしまったのです。



と、まあ、こう考えれば全てのつじつまがあうかなという強引な説です。虻羅トンネルの着工が昭和45年ですから、昭和42年以降という末期にわざわざ覆道を建て直すのか疑問ではあります。もしあえて建て直すとしたら建て直しせざるをえないような災害が起きたからという可能性が高いと思いますが、それほどの災害が全く記憶に見えていないのも不自然です。もちろん、虻羅トンネル着工が覆道建て替え後に急に決まった可能性も考えることはできるでしょう。

結局力至りませんで、謎をすっきり解消というわけにはいきませんでした。しかし、実際に歩いて状況を確認できたことは大きな収穫だったと思います。もし今後の追跡調査で何かわかれば追ってご報告させて頂きたいと思います。

 
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